虎くん 忘年会の由来と景品を渡す風習

忘年会の本来の意味

忘年会と聞いて、どんなものかイメージできない人はいないと思いますが、忘年会の正しい意味やその由来は知っていますか?
まず、広辞苑で"忘年会"と調べると、忘年会とは「その年の苦労を忘れるために年末に催す宴会」とあります。つまり、その文字の通りの意味の、"今年1年の嫌なことや苦しかったことを忘れて、新しい気持ちで一年を迎えること"を目的とした食事会や飲み会を意味しています。
しかし、最近では、忘年会を口実に仲間が集まり、単なる飲み会となっている場合も多いと思います。本来の意味としては、その年の苦労を忘れるというものであるので、是非覚えておきましょう。
では、次にこの忘年会がいつから始まったものなのか、その起源、由来を説明します。

忘年会の起源

忘年会の起源は、鎌倉時代に開催された「年忘れ」という会であると言われています。
しかし、その内容は、貴族や武士が連歌を読み合う、厳かで優雅な会であり、現在の忘年会のようなお酒を酌み交わしながら、盛り上がるものではなかったようです。現在の忘年会のような形になっていった起源は、江戸時代にあります。庶民の間に、お酒を酌み交わしながらの行う"年忘れ宴会"が広がったことが起源のようです。
ちなみに武士たちは、"年忘れ宴会"ではなく、年が明けてから、今でいう"新年会"のような会を開いていたとされています。"年忘れ宴会"が、年末の恒例行事として、また現在のお祭りムードのものとして本格的に浸透していくようになったのは、明治時代以降のことになります。中心となったのは学生や官僚で、年末に里帰りしなかった学生が年末に宴会で盛り上がったことや、官僚らが冬のボーナスが出ると皆で飲みに出かけて行ったことが忘年会として定着していったようです。
また文献でもこの頃に、夏目漱石の「吾輩は猫である」という有名な小説の中で、初めて"忘年会"という言葉が登場しました。この忘年会の浸透と共に、"無礼講"という言葉も、キャッチフレーズとして使われるようになり、同時に浸透していきました。
このように、"忘年会の起源"は鎌倉時代まで遡り、今の形なったのは明治時代ごろからと、かなりの時間をかけて変化してきました。

"無礼講"の本来の意味

先ほど"無礼講"というワードが明治時代ごろに、忘年会の定着とともに浸透したことを説明しました。
そこで"無礼講"に関わる豆知識を少しご紹介したいと思います。皆さん、"無礼講"の意味を「上下関係を取っ払い、多少失礼なことをしても良い場」だと思っていませんか?元々は神事の際に、神様に捧げたお神酒を偉い人から順番にいただくことを「礼講」と言います。言い換えると、「礼講」とは儀礼通りに物事を進めるということを意味しています。
そして神事が終わった後に開かれる宴は神事ではないことから、礼講のない和やかな宴という意味で"無礼講"と言うそうです。つまり、"無礼講"とは儀式のような形式にとらわれずに、身分の上下に関わらず、みんな同じように宴を楽しもうといったことを意味するのです。

景品を渡す風習の始まり

日本の景品の歴史をさかのぼると、江戸時代中盤、徳川幕府が安定し、商業が発達した頃にその記録が残されています。
当時から景品というのは、いわゆる「おまけ」の意味があり、その景品の力で商品やサービスを宣伝するようなアイテムを指しました。現在の景品に対する考え方の原型に最も近いアイデアは、元禄時代以降、現在の三井グループのはじまりにもなった駿河町「越後屋」がはじめた貸し傘サービスであると言われています。三越百貨店の前身である呉服店「越後屋」では、にわか雨が振った時に店章入りの傘を多くの客に無料で貸し出しをはじめました。傘を売るわけでも、モノを売るわけでもない顧客向けの無料のサービスは、当時としてはセンセーショナルで、「江戸中を 越後屋にして 虹が吹き」「越後屋の前迄傘へ入れてやり」といった川柳が残されているほどです。雨傘にしっかりと紋章が入っていたことからにわか雨が降るたびに江戸中で越後屋の大変な宣伝になったそうです。以後、越後屋をまねて雨傘を宣伝道具として、無料貸し出しする呉服屋が続出しました。
その後、太平の世の中で都市町人が主役となり花開いた元禄文化の時代、商人同士の自由競争の中で「景品」という手法も徐々に活用され、広く知られるようになりました。いちばん最初に「景品」として一般的になったのは、「手拭い(てぬぐい)」です。タオル類は現在の景品でも一般的なものなのでイメージしやすいかと思います。
景品はこのような意味合いで生まれ、その風習が広がって行きました。

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